南雲霞思考回廊出張所

南雲霞の思考回廊の下書き

資格試験の話

INPUTとOUTPUTについて、ものを考えているうちに、資格試験の勉強も悪くないのではないかな、という思いに辿り着いた。システムエンジニアという職業のくせに、資格に一切興味を示さずにこれまで歩んできた「ツケ」のようなものは相当溜まっていると思っている。

CBTになった基本情報処理

そういえば、基本情報処理技術者がCBTに変更になったんだった。社会人になりたての頃は、電卓を使うような計算が苦手で、(勿論、数学は大嫌い)受検するのさえ毛嫌いしていたのだが、再度チャレンジしてみても良いのかもしれない。

健全な身体、健全ではない心

今年、一年を振り返ると、1月に通い始めたチョコザップだけは、毎週3回以上、一定の頻度で通い続けていて、そこだけは良くやったなあ、と本当に思う。

物理的な距離って大切

歩いて5分。物理的な距離は本当に大切。以前はコナミスポーツに通っていた時期もあったのだが、片道15分近くかかると、往復で30分。それだけでもやる気が減退するというものだ。会社が完全リモートワークなので、通勤という距離を感じるイベントが減った分だけ、本当に大切だと思う。

健全ではない心

一方で、今年はストレスが過多な一年で、後半にかけて、体重が10キロ増えている。元から細い方ではないので、10キロ増えたところで見た感じは大して変化はないのだが、ズボンの締まり具合なんかに、ウェストのキツさを感じてしまう。とかく、世の中はままならないものなのだ。

良質のINPUT、そして良質のOUTPUT

CHAT GPTが世の中に随分出てきて、代わりに文章を書いてくれるようになった結果として、良質のOUTPUTを行うスキルの重要性がますますあがるのではないかな、と言う感じがしている。

気の利いた文章

「●●風に」等と指定すれば、たしかにそのように書いてくれるのだが、それは確かに作家の誰かに似せた文章であっても、それ以上でもなければそれ以下でもない。要はオリジナリティがないのだ。所詮は、「気の利いた文章」であって、それだけでしかない。

オリジナリティ

では、オリジナリティを出すには、という話になるとは思うのだが、これは、もう「型」を新規で作るしかないのだと思う。漫才師と同じ。かつてのミルクボーイがそうであったように。そして、ウェストランドがそうであったように。

文字を書く。そして挫折する。

常々、文字を書いて、それを生業にして生きていたいと思い、そして、挫折している。

好きなこと

ソーシャル・メディアがこれだけ巨大な市場になってしまって、所謂、「バズる」ことを目的にした文章になっていないか、と悩みつつ、いつも文章を書いている。自分の思考のルートを辿り、文字に起こして形にして、それを記録に残すことが出来るから。思考を形に残すことは好きなのだ。

悩むこと

一方で、やはり自分は「バズる」ことを狙っているのではないかという疑心暗鬼が常についてまわっている。生業にしたいと思うくらいだから、バズるくらいでちょうど良いのかもしれないが、なにか、どことなく嫌悪感のようなものがある、自己矛盾。これが多分、思考としてはおかしいのだと思う。

一億総発信時代

Twitterが世の中に出てきて、誰でも、世の中に「発信」が出来る時代になった。言い方を変えれば、「正しい情報を見極める技量が問われる」ということだ。世の中に多分、その辺の認識がまだしっかり根付いていないことに、何か恐怖を感じているのではないかな、という気がしている。

紙の手帳

スマホが普及してしまって、紙の手帳の出番がすっかり少なくなったのだが、相変わらず毎年、紙の手帳の準備はしている。

書くという行為

書くという行為に多少なりとも意味があると思っている。キーボードやフリック入力ではなくて、思考して、考えて、文字に起こすという一連の流れが大切だと思うからだ。その点、何かしら「アナログ」な文化が残っているのだが、これはデジタルでは代替出来ないものではないかと思っている。思っている図面や、思っている画像が瞬時にデータになるという時代が生成AIの興隆とともに訪れるのだろうか。

売り場の縮小

そこで、例によって、今年も紙の手帳を求めて、デパートに足を運んだのだが、手帳の売り場面積が随分と縮小されていて驚いた。もう、皆、紙の手帳なんか求めない時代なんだろうか。何処もデジタルにネット接続できる時代では「まだ」ないので、ある程度の需要というのは存在するとは思うのだけれど。

INPUTに何を選ぶか

INPUTの重要性

ここ数年、INPUTをさぼって来た。本も読まなくなって、映画も観なくなって、ドラマも殆ど観なくなった。何か、全てにおいて、「やる気」のようなもの(正確にはやる気ではないと思う)が減退してしまった結果だと思っている。それを鬱病のせいだ、と結論付けるには早急かもしれないが、取り敢えずはそういうことにしておきたいかな、とも思う。

INPUTをサボった結果

サボった結果として、当然だが、質の良いOUTPUTが減った。言い方を変えると、質の良いOUTPUTをしなくても良い世界に安住していた、とも言える。戦場で銃弾の下をくぐりぬけて、死線を生き抜かないと一人前にはなれない、とは常々思っているし、思っていたはずなのだが、自分自身がどうやらその世界観から外れてしまっていたらしい。困ったものである。

INPUTに適した何か

INPUTを再開しようと思って、色々準備はしているのだけれど、結局、では、INPUTに適したものは何だろうか、という根本的な疑問に行き当たる。Googleディスカバリーにしても、きっかけを与えてくれるだけで、そこから深掘りしようとなると、結構な時間がかかる。やはり、自分なりに、「きっかけを貯めておく何か」が必要なのかもしれないな、と思う。新しくサイトを作成しようと思うのは、そんなところもあるのかもしれない。

思考回廊とは

思考回廊とは

ここは、別に作成している思考回廊のサイトの先行メモ書きのようなものにしようと思っている。

思考回廊とは、無限に陥る思考の連鎖における、その思考の記録ではないかと思っている。思考を続けることは非常に大切なことで、思考を停止した時点で自分自身は、ある意味「死」に至るのではないかと思う。

INPUT、OUTPUT

良質なINPUTというのは非常に大切で、常に続ける必要はあるのだが、同時に良質なOUTPUTも必要である、ということに漸く思い至った。INPUTを咀嚼して、解釈し直して、良質なOUTPUTに変換して出力すること。思考回廊のサイトはそのような構成を心掛けていきたいと思っている。

世の中に不満があるなら、自分を変えろ。それが嫌なら口を噤んで孤独に暮らせ。

草薙素子はかのSACの冒頭でこの台詞を言ったが、口を噤んで暮らすことがないように、生き続けなくてはいけないのだと思っている。思考回廊のサイト作成はその活動の一環に過ぎないのかもしれないが、それでも、無いよりはマシだ。